『宝の海のお届け人』植木勇次のブログ

長崎県諫早市小長井町で漁師をしています。『漁師への道』や『有明海の魅力』などを書いているブログです!

『諫早湾干拓がもたらした、有明海漁業の衰退』に参加して①

みなさん、こんばんは。 

長崎県諫早市小長井町の漁師の息子、 『宝の海のお届け人、植木です』

J1に昇格しました‼︎
おめでとうございます。

ジャパネットの高田社長も
いつもの声のトーンにも増して、
歓喜の声をあげられた事でしょう‼︎
「ベガがですね」…。

分かる人には、分かって頂けると思います。


諫早湾干拓事業の歴史を正しく知る。

諫早湾干拓の歴史…。
今から65年も昔に遡ります。

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1952年・・・「長崎大干拓
戦後の「食糧難対策」の為、
米の増産を目的に
諫早湾を10キロの潮受堤防で仕切り
1.2万haの干拓地(田畑)と湖を作るという、
現在の3倍もの巨大事業として、計画がされる。

から始まります。
65年前ですよ。

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1970年・・・長崎南部地域総合開発事業(南総)
米の生産過剰から、食糧難が解決すると
水と土地づくり」をうたう多目的干拓
として、名前を変えます。
都市や産業の用地・用水(水不足対策)の確保としての目的に変わります。

南総は、漁業者との交渉に失敗し、
1982年に計画が無くなりました。
ところが、あくまで事業に執着する農水省長崎県は、「防災」を持ち出すのです。

1982年は、長崎大水害もあったり、
1957年は、諫早大水害もあった事が、
理由付けでした。

「人命」を持ち出し、
干拓事業をしても漁業被害は、
2割程度という国からの説明で、
当日、小長井町漁業組合長をしていた
私の叔父をはじめ、
私の父や漁業者は渋々、合意した訳です。

そして、正式に
国営諫早湾干拓事業」として動き出す訳です。

そして、完成したのが、コレ。

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空撮がコレ。

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明らかに、おかしく無いですか?

調整池は、淡水の状態。
水って、動かなかったら、腐ります。
有害なアオコが発生したり…。

ソレを大雨の時などに排水する訳です。

こんなのが、海水に流れ出ると、
どうなるか…。分かるかと思います。

今日は、長くなりそうなので、
この辺にしておきます。

ただ、眠いだけですが💤


そいぎんた、また。